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行政内の開放的アゴラ(提案)

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2007-01-06     
自治体内の横断的政策研究組織と市民を招き入れるアゴラの設置について(提案)
     2000年10月の修正版0611
 ご意見をお寄せください。
 硬直的な自治体という組織をいかにして、常にup-dateな組織体に変えるかという試論! こんな提案は、早く陳腐化してほしいのですが。

目次
はじめに
行政を取り巻く社会環境の変化
自治体は独自の施策を自己財源で
行政ニーズの変化
自治体内の横断的政策研究機関の設置を
[1]時代環境の変化(社会問題、経済問題など、行政課題が山積する時代状況)
   混沌とした時代状況
   国民、住民は、具体の答えを求めて動き出している
         ‥ 草の根からの住民の立ち上がり
   個々の自治体の力量が問われる時代
   職員参加のQC的活動が必要
[2]自治体内の横断的政策研究組織の設置について
[3]「人も組織も安きに流れる」というのは宿命か!
   1)セクト主義の発生
   2)担当課:色のついた仕事の是認
   3)組織体は外からの意見を嫌がる
   4)世の常として、人も組織も安きに流れようとする
   もの言う市民たちの登場
[4]市民を招き入れるアゴラ
   行政と市民団体をつなぐ中立的な研究組織
 終わりに
   集団主義で成長してきた日本
   世界革命の波
   「和を尊ぶ」とともに「異質、個を尊ぶ」へ


はじめに
 行政を取り巻く社会環境の変化
 日本国内を中心とした高度経済成長の時代が、バブルの崩壊をもって終わろうとするとき、世界は情報化、国際化という歴史的転換期に入った。経済、環境、教育、福祉等、従来の価値基準や社会秩序が様々にきしんでいる今日、国や自治体の施策も抜本的な対応が求められている。国は各種戦略会議を開催し、対応を急いでいるが、県や市町村といった地方自治体においてはまだまだ、これからである。
 自治体は独自の施策を自己財源で 
 ナショナルミニマム(社会基盤の全国的一定レベルの確保)といったものが一応のレベルに達してきた90年代になると、各自治体のかかえる行政ニーズは多様化し、国レベルでは把握しきれず、事業の立案も自治体に任せるようなってきたことや、国家財政事情の厳しさもあり、権限の地方移譲が進んでいる。
 従来の重要事業は補助事業の認可を得てコンサル発注という流れのなか、ハードの基盤整備のような型にはまった事業が多かった。しかし、今後は福祉や教育、観光など人的サービスが多く必要になる、ソフトな事業に重点が置かれるようになってくる。これからの住民に身近な自治体の事業は、従来にまして具体で心のこもったものが強く求められることになる。
 今後は、国の補助事業であっても事業のメニューから選ぶのでなく、自治体側が作成した事業案について国に補助採択を要望するといったものが多くなるだろう。
 行政ニーズの変化 
 田中康夫長野県知事当選の一連の新聞報道でも感じられるように、行政に対する住民の要望は身近で具体で、だから多様で熱のこもったものになっていくと思われる。このような状況を前に、三割自治、前例踏襲主義といった古くからのお役所体質がしみこんでいる自治体が、今後どのようにして時代対応を図っていけるのだろうか。
 柔軟な対応が図れる組織であり、職員一人一人が創意に満ち、活性化している組織環境を構築するため、 
 自治体内の横断的政策研究機関の設置を 
 抜本的対応を図るには自治体職員の主体的、前向きな発想による行政の改善が必要である。その最初のきっかけは行政機構の中にインキュベーター(孵卵器)として組織横断的な政策研究組織を組み込み、それを自治体が積極的に育て、活用することだと思う。時代に対応すべく様々な検討がなされなくてはならないが、そのための最初の一歩もこの中から始まるのではないか。

[1]時代環境の変化
   社会問題、経済問題など、行政課題が山積する時代状況
 混沌とした時代状況
 世界は農業革命、工業革命に次ぐ情報革命の時代にある。我が国はバブル崩壊から立ち直れないうちに、グローバル化、規制緩和、競争の激化、合理化といった、情報革命にからむ一連の波に揺れている。
 また産業界は、経済成長を前提に維持されてきた集団主義的な枠組み、すなわち行政指導と業界の束ねによる自主規制や護送船団方式、系列取引、株の持ち合い、そして終身雇用、年功序列などが様々な面から制度疲労を起こしている。生活者側も人間疎外、家庭破壊、教育の荒廃、少子高齢化~人口減少、リストラや雇用のミスマッチに伴う失業問題、国や自治体は上記に伴う制度の見直しや、財政難、地方分権、市町村合併~道州制省への移行など新たな課題が山積し、時代は混沌とした状態の中にある。
 住民の直接の生活に係わる市町村に対し、住民達が向ける目は真剣で従来に比べ格段に厳しいものになってきた。
 国民、住民は、具体の答えを求めて動き出している‥ 草の根からの住民の立ち上がり 
 今までは市町村が国や県からの施策を受けて住民に流していれば事なきを得たが、今日、深刻な社会認識に立つ住民は、直近の自治体に個別具体の対応を求め、住民投票やリコールなど突き上げも辞さないといったパワーが感じられる(*1)。住民にあおられた自治体が慌てて上級官庁に支援を頼むといった、従来と逆の流れが一般化しそうな気配である。かつてささやかれた「地方の時代(*2)」などといった悠長なものではなく、いても立ってもいられなくなった住民が草の根レベルから、緊急処置的に、しかし本質的な対応を求め出しているのだといえよう。
  *1:NPO、国家的補助事業見直しの動き、長野県知事選での勝手連の活動など
  *2:これは中央から地方へといった上からの発想だった
 個々の自治体の力量が問われる時代
 地方では分権や行政改革が始まりつつあるが、それにより今後は急速に個々の自治体の力量が問われることにもなってくる。
 職員参加のQC的活動が必要
 このような状況に際し、自治体は国や首長といった上からの指示や住民など社会からの要請を受けての事業化という従来的プロセスのほかに、企業によるかつての「改善」とか「QCサークル活動」のように職員はじめ市民からの自主的研究活動が必要である。いくら外からの風が強くても、それらの経験を踏まえて目覚める各種施策を推進する側の自治体職員からわき上がる意識なしに、魂の入った事業は推進できないからである。

[2]自治体内の横断的政策研究組織の設置について
 自治体には広範なまちづくりに関する最大の情報があり、人材があり、資金と組織がある。それらに関わる職員が、日々の業務を離れ、創造性を発揮して主体的にまちづくりを考え、政策立案を目指す場を設けたい。
 このような場を設けることにより職員や組織が活性化し、自治体の責務であるまちづくり全般がより実体感にあふれたものになる。コストはほとんどかからない!
 各自治体はこのような認識に立って、積極的に職員の創造的政策研究、立案の場を設けるべきである。その有無、運営の優劣などにより自治体運営に格差が生まれるが、その格差が自治体間競争の契機となり、地方自治体の時代対応が全国的にも顕著に進む可能性がある。

[3]「人も組織も安きに流れる」というのは宿命か!
 行政が大きくなり、施策が細かく多様化する中、個々の職員としては行政事務事業の全体が見通せなくなってきた。
 1)セクト主義の発生
 職員は、細分化された中の任された業務をこなすだけで、それに埋没しやすい。そうなると自分たちの課とか係の立場のみを正当化するといったセクト主義に陥ってしまう。
  →サラリーマン化 ~ 歯車人間化 ~ 仕事のルーチン化 ~ 組織の硬直化
 2)担当課:色のついた仕事の是認
 担当課が一番仕事を知っている。情報もつかんでいる。しかし、具体に取り組む中で生ずる様々な事情がかせとなり、しがらみとなり、色のついた仕事を是認し、自分達の課・部・行政体防衛的に正当化するなかで事業を進めざるをえない。担当課というものは多かれ少なかれそのような立場に置かれてしまうものだ。
 3)組織体は外からの意見を嫌がる 
 係、課、部、役所全体について、それぞれにいえることなのだが、行政体は温かい批判を含め、おしなべて外からの提案を嫌がるものだ。しかし、とらわれのない部外者による提案や批判は、時代性やバランス感覚に優れるなど的を得ていることが多い。そのような外の風にいつもさらされていることで、組織や事業は健全に保たれる。
 4)世の常として、人も組織も安きに流れようとする
 市民は、複雑なことをやっている大きな組織のなかのこと、安易にものも言えるものではない。任せておけばそれなりにやってくれるものだと、あきらめ半分で傍観者に回ってきた。
 これは、市民だけでなく町会、行政、議会、企業組織内の一人一人にもいえることだ。そのような人間の限界性を前提に、それでも仕事の質が確保されるよう仕事のマニュアルが活用され、実施計画をもとにノルマが課せられてきた。組織人はまず直接の上司ににらまれないよう、また同僚と気持ちよく仕事ができるよう周囲に後れない程度の仕事の進捗に努めてきた。その枠を外れてでも前に、横に建設的な批判、提案を入れる組織人は少ない。このためマスコミや議会、市民からの日常的、抜本的揺さぶりがないと、組織も安易に流れやすい。しかし、もしかすると全国的に地方議会や議員にその役は似合わないかもしれない。
 もの言う市民たちの登場
 大規模補助事業見直しを求める住民投票~糸魚川高規格道路に反対の住民運動、知事選:民間からの候補者擁立と各地で立ち上がる勝手連のパワーなどに見えるように、従来、組織的に対応してきたことに草の根市民からもの言いがつき、それが無視できなくなってきた。
 その理由としては教育レベルの向上、情報化、世代交代、社会問題の深刻化などが考えられるが、そこには行政に任せておくだけでは手厚い施策になりにくく、ロスも多いとの思いも強い。不良債権問題や長野オリンピックの書類焼却、雪印の食中毒事件、三菱自動車のリコール隠しなどが続くなか、今の大企業や役所は、見えないところで組織ぐるみで良からぬことをしているかもしれないといったイメージが強い。
 このため、身近なところに住民要求を聞いてくれる場がほしい。そして、それが施策に反映されていくというプロセスが見たい。できたらそこに参加したいというエネルギーが見て取れる。

[4]市民を招き入れるアゴラ
 行政施策全般(まちづくり)について情報交換し、自由に談論風発する場、心ある人たちが建設的にまちづくりを語り、考え、学び、切磋琢磨するアゴラ風の場や、それを啓蒙する風土がなかった。一般市民はそのようなトレーニングができていないため、審議会の委員も含め建設的提案や要望でなく苦情と従来的要望に終始し、いざという場面で感情的に対立したりで前向きの議論に至らず、それを無言の人々が囲んでいるという状況が作られてきた。正当論であろうと、「もの言えば、くちびる寒し」である。
 そのような歴史、風土、文化の中、人々の心は虚無化し、それが主体的な市民、職員を作れずに今日まで来たということだろう。
 そのようなわけで政策研究組織とは別途、行政の支援のもと市民の誰もが自由率直に学び話し合う場(アゴラ)が求められる。
 行政が支援することで率直、自由闊達に、建設的かつ友好的な展開が可能となる。行政と無縁なところでまちづくり、政策検討的な場が立ち上がると、多くの場合行政からは不満分子の集まり、わずらわしい集団と見なされ、結果として行政との間できな臭さが生まれ、建設的、持続的なまちづくり活動に発展できない。
 行政と市民団体をつなぐ中立的な研究組織
 このところ、全国的に行政に対し立ち上がる市民グループが目立ってきた。実際は行政に肯定的な市民も多いのだろうが、そんな不特定の市民は個々バラバラで声をあげないため全んど見えない。そのため問題が矮小化され、対立が強まることもある。理想は、一つの施策案に異論がぶつけられることで一段高い次元で合意点を探すようになり、結果として施策が充実してゆくということである。行政の呼びかけで行政の協力のもと事務局は市民側に置いたアゴラを作ることで、そのような人たちと中立的なスタンスで意を尽くした率直な意見交換や、サイレントマジョリティへの地区別説明会兼懇話会後の一般市民への意見等の調査、異なる立場の人々を多面的に想定したロールプレイやディベートやグループに分かれてのKJ法等を活用しての課題の掘り下げなどにより課題を洗い直し、高い次元での解決に持っていく営みも可能となる。このような市民、市民団体と行政の政策研究組織はもちろん、行政との連携により、市民参画のまちづくりが初めて可能になる。
 研究組織では、意見交換や一般的な話し合い、陳情や議決-多数決-などを経ての決定以上に多方面からの密度の高い詰めが可能である→自由発想、創造的小集団活動とそれに対する批判的揺すぶり役(デビルズアドボケイト)の組み入れ、必要に応じて事前の勉強会や会議のアドバイザーとして専門家を招聘

  終わりに
 集団主義で成長してきた日本
「もの言えば くちびる寒し 秋の風」「沈黙は金」「和をもって尊しとなす」「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」などは、歴史的に農村という伝統的な村落共同体にあって、己は押さえて家や村社会を立てて生きてきた農耕民の体質である。そこに明治以降の軍国主義に滅私奉公の武士道が重なり、それは集団主義として二度の大戦、そして戦後の企業社会に引き継がれてきた。
 世界革命の波
 それに平行して起こった情報革命は世界革命である。我が国は、世界と一体につながった経済大国であるから、世界革命の波は特別な勢いで日本の国境などを吹き飛ばせてしまう。
 島国の伝統的集団的文化が今、世界の価値観の波に飲み込まれようとしている。それはわが国が、常に異文化や異なる価値観のやりとりの中から社会は新陳代謝し、発展してきたからであろう。
 島国として、誇れる民族性や文化を構築してきた我が国ではある。しかし、グローバル化の時代に際し、ギリシャ、ローマに始まりそのような優れた国家や文明が滅ぼされながらも、それらの優れた知識や文化を取り込み改変してきた欧米の体系的文明が情報革命を契機に一気に世界を席巻するに至った今日、経済、教育、福祉、環境保護などの共通テーマにおいてはローカルないかなる民族規範も世界革命の波に抗しようがあるまい。
「和を尊ぶ」とともに「異質、個を尊ぶ」へ
 その様な巨大な波の前に、一番異なる文化国家が島国の経済大国、日本である。異質を排し、個を疎んじ、和を尊んで集団的価値観に埋没し、様々な責任を顔の見えない集団に任せてきたことが社会秩序に無責任体制をはびこらせてしまった。そのような負の側面が国中に噴出している。既存組織社会の形骸化が極端な形で噴出するなか、これらの社会現象を反面教師とし、今こそ国の生き残りをかけて企業文化、行政体質、国民体質の再構築に打って出るべきである。残された時間は皆無といえよう。
 大和銀行ニューヨーク支店の嘱託行員による2千億円に上る使い込みと会社ぐるみの隠蔽問題、雪印乳業の食中毒事件や三菱自動車のリコール隠し、日産自動車の赤字垂れ流しを10年に渡り改革できなかった取締役会、監査役会、労組といった没我的集団文化、これらはすべからく長いものには巻かれろ風に、集団的文化が培ってきたものである。 
 このようにして、自治会から行政、議会をはじめ、長く存在してきた組織体にはどう見ても形骸化した面が多い。そして、それらを支えてきた日本人の気質は個を抑圧するものであり、極めて息苦しい。
 なるほど内部告発や、企業や人をけ落とすような競争社会はいやなものだ。日本人には受け入れにくい。和を尊ぶ心は大事にしていくべきだが、その陰にある危険性も肝に念じ、とらわれのない多様な発想機構を組み入れることで組織社会に新陳代謝をもたらし、それによって常に広く社会の健全化を図るべきである。