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この国にたかるシロアリ

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  3. この国にたかるシロアリ
 結局日本の議員は、議会制民主主義に集るシロアリ

 日本丸、自治体丸(以下、船と略す)の艦橋に立つのは、国民、住民の代表として、操船指令を託された政治家たちである。官僚や首長、自治体職員は、そのトップ及び乗組員として、艦橋の政治家たちからの指示を待っている。このようにして民主主義国家は形作られている。

 政治が責任を持つべき面で、我が国の劣化が顕在化し始めたのは、1985(s60)年頃からである。市街地の空洞化、農家の嫁不足、バブルの崩壊、日本的雇用秩序の崩壊、グローバル化への乗り遅れ、そして超長期円高デフレ等々のなか、遂に大手企業は軸足を完全に海外に移した。少子高齢化・人口減少社会、国民年金制度の破たん、2012年度国家予算の30%、25兆円が国債で賄われ、国、地方の借金合計は940兆円に達する。

 この20年を通して、国政は第二次世界大戦突入以前の議会以上の混乱の中、瓦解状況に至った。そして地方議会はといえば、その多くは地域に押し寄せる暗雲を認識することもできず、安穏の中に浮かんでいる。その原因は、地方議会という村社会がこの国最大のガラパゴスだからである。

 ともかく日本丸の艦橋の人たちは操船を忘れ、沈みゆくタイタニックの認識もおぼろに、艦橋内での生き残り、票集めに汲々としている。火事場の馬鹿騒ぎと異常な平穏が併存する国と地方議会の議員は、水平線を見て、天気図を見て操船する責務など、考えたこと経験したことがあるのだろうか。

 今のままでは、まもなくこの船は海中に没する。その責任は、操船を託された艦橋にあってその任を忘れ、ドアの内(曰く村社会)の権益にたかる議員、シロアリ議員たちにある。
 政治家にとって、一番怖いのは落選することだといわれる。それは、彼らがシロアリである何よりの証拠ではないか。矜持、無私の心、自己犠牲どれも当てはまらない人種のようだ。
 民衆は、教育費や生活費を切り詰めて政治家を雇ってきた。乗客の今日一日そして明日からの確かな旅を託し、艦橋に送り出してきたのだ。それがこの体たらくである。乗客の不満が極度に高まったとき、それは犯人探しとなって一気に爆発する。歴史上では、それが農民一揆、テロ、独裁者の登場となったが、今日の民衆の不満は、政府、議会そして政治家の一人ひとりに向かおうとしている。私は戦慄を覚える。

 社会の劣化に、国や地方の最高議決機関はその実態を知らず、なすすべを知らない。それでは執行機関が対症療法に移るのはやむを得ない。この国を沈みゆく国に仕立て上げ、なおかつ甘い汁を吸い求めているのが国や地方の議員たちということになる。
*責任の重さ 1に政治家 2に専門家(官僚を含む)とマスコミ 3、4はなくて5に民衆(衆愚政治の責任は、民衆にあるというのは底の浅い詭弁である。)

 さすがに社会は、そのことに気づき考え始めた。しかし議員の多くは、その片鱗も頭によぎったことはないようだ。心ある市民や国民目線で議会の責任と機会損失について深刻に熟慮すれば、ことの重大さに気づくはずなのだが、浅慮である。沈みゆく船の艦橋、議会政治は、眼前の政争あるいは安穏の中にある。このままでは、団塊世代が後期高齢者に突入する10年後には、海中に没する。

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■1 シロアリ議員、その罪悪と被害状況
 今の議会の機会損失は、そしてその影響はどこまで広がっているのだろうか。自治体レベルから考えてみた。
・人為的に、ギリシャやローマを緒元にイギリスからアメリカそして欧州へと広がっていった市民社会結局日本の議員は、議会制民主主義に集るシロアリ.DOCXから開始された長い歴史を通して自然発生的始まった直接(草の根)民主主義から発展した間接民主主義は、日本では民とつながっていない。


1 住民自治の枯渇 
‥間接民主主義の形骸化が、人々の自発性を萎えさせた
‥住民自治は国の基
・自分たちのことを自分たちで考え、それを形にし、マネージしていくことが住民自治。その住民が本来持っているやる気、実行力、責任感、困難に立ち向かう、自頭力(自発性)が失われてきた。主体性、発想力、社会を向上させていく公徳心と意欲、社会に対する夢や期待も失われた。
 住民自治は自発的な人間と地域を育て、社会の基本をなす。
・住民自治、地方自治を経験するなかから地域を支える中核となる人々が育つ。しかし、熟度の高い学習機会(別途詳述∽パリッシュ)が得られず、人材が不足し、地域社会の衰退を加速することとなった。
(例)町会未加入問題と割れガラス現象、消防団のなり手不足、町内会活動の衰退、治安の悪化等々
 
2自治体や社会のさらなる形骸化
・行政と議会の形骸化、議会のお上化。そして 有権者の無関心化
社会制度の硬直化と形骸化、都市の荒廃(スプロール、景観破壊、中心市街地の空洞化、空き家問題、耕作放棄地問題等々)、そして1000兆円の大台を突き抜けようとする借金超大国

3 教育の形骸化
・若者の生きる力と多様な可能性を高めるのではなく、むしろそぎ落とし、歯車の規格品に仕立てるところの大学までの教育制度。今の企業は、そんな若者を欲しがってはいない。
・大学に至る教育制度と大学で教えている内容や教育体制は、機械的、事務的運営。欧米の幼稚園から大学院などに至る教育体制とは全く異なる。
・大学に入るまで、子供は機械的、事務的な偏差値教育に翻弄され、結果として夢と自信と生きる力にあふれた若者を育める教育機会を失うなど、恐ろしい機会損失のなかで、教育関係者は生活の糧を得ている。
・国家の礎は教育といわれる。その教育の荒廃の最大の責任はどこにあるのか。自治体の教育委員会、文部科学省の上にある、議会の指揮管理、命令不足以外の何ものでもあるまい。
 私は、憤りを禁じ得ない。
              
4 産業の空洞化
→ 経済、産業、雇用政策、教育政策
 国策大学における専門家の育成(組織論等)

5 国家、社会経済文化あらゆる面での衰退
・好ましい社会を作るための法や条例の上からの制定が、結果として地域の自発性、主体性を圧殺してしまうなど、重大な齟齬ないし破壊を招くことが多かった。
最高の議決機関である議会は、住民の声を受けて執行機関に指図する立場にある。その執行機関の行動規範は、法や条例に基づくものである。しかし、基本原理として、地域住民が思いを突き詰めたものは、空疎な法や条例より上位のものである。よって、法や条例を変えることまで含め、その営みは真に議会の主体性、その存在理由にかかっている。
(例)都市計画法の運用:法のもと、自治体は机上の空論といった内容の条例等を整備し、事務的に運用した。その結果、地域の特性や地域の主体性は大きく損なわれ、都市は衰退した。
・健全な住民自治があってはじめて、あらゆる議会制民主主義が機能し、その結果として制度の再構築や広義の新陳代謝を促し、社会システムが健全に機能するようになる。

■2 住民自治から始まる新生日本のメカニズム
1 住民自治の第1段階(全員参加と役員の回り順型) 町会自治
  ‥あらゆることを地域で行った ‥地域共同体
・皆が協力しなければ、地域が成り立たなかった
・取りまとめ役、執行責任者、その他の構成員という構成体
  自己犠牲的精神の役員‥無給だと、どこまでも責任感だけでやり応する。役員間で強い仲間意識ができる。役員に対し、構成員は感謝と尊敬の念を抱く。役員には、地域に対する公共心が育つ。役員とOBの間に強い連帯感が形成される。役員経験者には、地域が一目置くようになる。隣組の確かな信頼感ができる。新住民でも役員をすれば、一気に地域の主体者になれる。このようにして地域の全員に、公共の精神が培われる。
2 住民の代表(無給の名誉職)を議会に送る(欧米のかつての形cf.パリッシュ、米)
・住民参加型議会
 議員は、今までのように顔見知りの町会の仲間たちはもちろん、地元住民の意見を聴きたいと思う。聞くのが当たり前と思っている。住民も、十分意見を聴いてほしいと思っている。それが制度的に組み入れられている(議員と住民は仲間という関係)。
(戦前までわが国では、一定額以上の納税者に選挙権や被選挙権が限定されていた。そのため、一般住民にとっては議会活動も選挙活動も縁遠い世界だった)
・道を作り、水道を引き、そのために田畑を処分した村長や議員も珍しくなかった。
・義によって、志の高い人が多かった。


■3 結果としてシロアリになってしまった議員たち
 この国の置かれた閉塞状況とそこに至る過程、原因や対策を考えていくと、国民の声が政治に反映されていない。また、政治が国民・住民の期待に応えるべく、十分機能してこなかったことに思い至る。ときに潜在的な国民の声、将来の国民の声まで推察して、期待に応えるのが政治の務めである。しかし、彼ら政治家がしてきたことの結果は、沈みゆくこの国である。
 我が国が、海中に没しつつあるタイタニックという、歴史上かつてなかった状況下にあって、従来と変わらぬ議員活動に盲進している人たちは、憤った民衆からシロアリの烙印を押されることになる。
 乗客に向けて、この船に向けて、我々議員は何をすべきか、何ができるか。それを見出し、そこに政治生命をかける人以外は(彼らの認識からして、思いもよらぬことであろうが)、結果としてシロアリと指弾されるべきである。


~~~~ 引き出し ~~~~
 
 この船がおかしくなってきたのは、校内暴力・家庭内暴力が始まった昭和50年代後半からだろう。職場や地域、家庭という生活の基本的なところから疫病がはびこり出し、一番感受性の高い中高生が切れ始めたのだ。核家族化、共稼ぎ・塾通いと受験競争・長時間残業や単身赴任で父親不在、偏差値教育などによる親や教師などとの断絶等、雇用や教育の質の問題である。国の元である教育が荒廃した最大の理由は、大学受験に向けた教育の姿勢にある。高度経済成長期、企業も企業「戦士」も、家庭を忘れて仕事に猛進した。(これはヨーロッパのように、現代につながる貴族社会の歴史がなかったためで、政治家に責任はない。)
 人として、最も大事なことは自分の世界を守ることであり、親として最も大切にすべきなのは夫婦、子供たち、すなわち家族と過ごすふくよかな時間という確固とした認識が、十分形成されてこなかったところに問題がある。明治以降、我が国は富国強兵から二度の世界大戦、高度経済成長といった時代の流れのなか、そのような価値観が根付く間もなかったのだろう。